合気道開祖の教え

7)宇宙の真象

開祖が神示を受け、「その折りに今まで習っていたところの技は、全部忘れてしまいました。 あらためて先祖からの技をやらんならんことになりました」と述べられている意味は、今までの形ある武を忘れ、神示にある『自然の力、仕組み』即ち『宇宙の真象(真の姿、真理)』に合する魂の武の探究に精進されたということです。
『霊界物語』に「(霊界物語の)第九篇宇宙真相研究し 神示の世界を悟るべきなり」という歌が見えます。

神示では、形の無い武を魂の武(武産の武)、形ある武を魄の武(今までの武)と区別しています。
神示を受けられた時点で、開祖は、魄の武では既に人に抜きん出た技量を身につけていました。
綾部に移住されてから格段に強くなったそうです。
昭和5年(1930)に講道館の嘉納治五郎師範(1860〜1938、柔道の創始者)が、「これこそ私が理想とする武道、本当の柔道だ」と賞賛されたことは有名な話です。
また、精神的な面でも、王仁三郎師の下で『言霊』の研究に没頭し、神人合一の武道を「御創造御経綸の精神の道」「言霊の妙用」とする段階にまで達していました。
昭和の初め頃(大正14年(1925)の黄金体体験の後)には、「一町四方(約100 m四方)で危害を加えようとする者が居たら、相手の気を感応して知ることができる」と話しています。
それ位の素地がなくては神示に応えることが出来なかったと思います。

大正11年(1922)に『大東流合気柔術』の教授代理を許されていますが、それまでの『大東流柔術』に『合気』の文字を加えるように惣角先生に提言したのは開祖でした。
王仁三郎師から話があったからのようです。
昭和13年(1938)に開祖が出された『武道』に『合気の鍛錬』の項があり、「合気は練習の徳に依りて自然に会得し得るものなり 詳細は口授す」と書かれています。
開祖は、惣角先生の指導から離れ、王仁三郎師から『言霊学』を学び、流儀名を『合気武道』として神人合一の武道を目指していましたが、その武技の根幹にはこの『合気』というものがありました。
前掲の『武道』にも「氣のみわざ たまの志づめやみそぎわざ みちびきたまへ天地の神」「鍛錬のみのりにたまふ合氣の身 唯ありがたく稜威仰よ」という道歌が載っています。
この頃には大東流の『合気』に『言霊の妙用』を取り入れた工夫があったようです。
技も円転の理を加えたものに変化して来ています。
嘉納師範が弟子を派遣した時、村重有利先生(1895〜1964)も柔道から転向して『合気武道』に入門しました。
村重先生の話では、「5〜6 mも投げられ、天井に放り上げられて足で天井板を踏み外したこともあった」ということで、当時の稽古や研鑽の様子が推察出来ます。
それだけ飛ばされたということは、開祖が工夫を加えられた『合気』という技法があったことを物語っています。
少しは力が必要であったようですが、ダイナミックなものであったようです。

高岡貞雄先生(1916〜2002)は戦前からの弟子ですが、昭和26年(1951)に開祖から次のようなお話を伺っています。

「私が稽古を付けていただいたが、あまりにも柔らかいので、私も稽古すれば戦前の翁先生のような力が出てくるのですかと尋ねました。
翁先生は、戦前は解らず力で稽古していた。今は力は不要。此れが武産合気じゃと申された。
そしてその訳を話してくださいました。
終戦の年、病で倒れ気が虚ろになり(天国に)行こうとすると、天女が私に火を吹きかけてきた。
それでも行こうとすると、一人の僧が出てきて帰れと言う。お顔拝見と言うとまだ早い、修養がたりないと語られた。

その後病が回復され、合気神社に参拝しようと思い参道を行くと白い人が見えた。
良く見るともう一人の植芝が木刀を構えて立っているから、打って行くと打たれた。また打つと打たれた。
今度構えていると、ぱっと消えた。この時から柔らかい技に変わった。其のとき『松、竹、梅』の剣法を会得した。
これが翁先生が武産合気の命名の由来だと申されました」

この白い人(白い幽体)との稽古は次のとおりで、終戦の年、2週間続けられました。
「最初はこれを私の錯覚かと思った。
自己のうちに天台(天の浮橋)をつくり、自分が天地と宇宙と常に交流するように心がけていた。 それでものを起こそうとする時、目の前に白い光ものの玉が現れ、その中に今一人の私が立っている。 そして私が扇子を持つと、相手の私も持つ、私が突いてゆくと、相手に突かれる。慢心など出来なかった。 それは錯覚ではなくて私の修行であり、これによって私は常に進歩出来ると思ったのです。

それは丁度、体の方では潮の干満のようなもので、波が来る即ち打って来ると波の花が散るように陽になって音を生じる。 息を吸い込む折には只引くのではなく、全部己の腹中に吸収する。 そして一元の神の気(愛の気)を吐くのです。
それが社会の上なれば、自分の宇宙にすべて吸収して、また社会を神の気で浄めるということになります。

霊の相手が突いて来る。突いて来る光にのって、光を捕えて、即ち突いて来る光に同化する。 それを光の架け橋として、今度はそれに向かって自分が進む。このような体験に私は日々あった。 だから日月の気と天の呼吸と地の呼吸、潮の干満とこの四つの宝を理解せねばだめなのです。

もう一つ、澄み切った玉(真澄の玉)が必要です。 この五つのものが世界を浄め、和合させると思っている。(中略)

今日は魄(物質的)の上からもテレビのようなものが出来、遠隔の地のものごとが見え、そして判るようになりました。 それがもう一歩前進すると、精神の花が咲き、精神の実が結ばれた折には、全部の人は互いに個々の想いが絵のように己に映って来て、すべてが判るようになる。 その日のあることを確信しているのです。

合気道は相手が向かわない前に、こちらでその心を自己の自由にする。自己の中に吸収してしまう。 つまり精神の引力の働きが進むのです。そしてこの世界を一目に見るのです」
戦後になって開祖の技が変わった。相手が近付くと、触れない前に宙に飛ばされるようになった。 気とか霊が見える人が見ると、開祖の体から金の線が出ていて、相手がそれに触れると飛ばされている、と言われるようになったのは、 この白い幽体との稽古の後でした。

戦前の『合気』(魄の武)が白い幽体との稽古によって『武産合気』(魂の武)に変わったのです。
この武産合気の技法については、8) 武産合気の項で述べます。

開祖は、『真の合気』『真の武道』というのは、「宇宙の真理から出てきた武道だからです」と話されています。 そして、ここが大切ですが、「その宇宙は一つのものから分れてできていて、宇宙全体が一つの家族の様に和合し、平和の極致を表現しております。 こうした宇宙観から出発している合気道は全く愛の武道でなければならないということです」と続けられています。 これは、合気道について観念的に述べられたものではありません。 人生の根本的な真理を、頭で理解されたのではなく、修行を通して心で悟られた上で話されているのです。

中村天風先生(1876〜1968、日本人初のヨーガ直伝者)が、カリアッパ師(ヨーガの大行者)から「自分(真我)とは何だ」と問われ、 「本当の自分とは体でも心でもない。体も心も自分にとって道具にすぎない」「心と体は魂を成長させるための道具にすぎない」 「本当の自分は"魂"、"気"だ」「この"魂(心魂)"は"先天の一気"で、宇宙霊(神魂)の分派(分霊)である」と悟られたのと同じ悟りです。

神道では、「人は神の分霊(わけみたま)であるところの、直霊(なおひ)を授かって生まれる」と教えられています。 神道は「家内安全」「無病息災」を祈願するだけのものではなく、哲学的な根本の教え(宗教、もとの教え)であったのです。 開祖は、「人間は、目に見える個々の肉体がバラバラに独立して存在しているのではなく、宇宙に充満しているエネルギーの一部としての霊(気)からできていて、 霊(気)の世界では全てがつながった一つのまとまりである」ことを悟られたのです。

無為気功(タオ)の張玉林師は、「その道理とは、世界のすべてのものが、どこかでつながり、かかわりあっているということ。 あたかも全体が一つであるかのように、あらゆるものが調和とバランスに満たされている状態。 それこそが私たちの住むこの世界の本来の姿(宇宙の真象)、つまり自然だ」と述べています。

驚いたことに、科学者のアルベルト・アインシュタインも同じことに気が付いています。

「人間は、ある統一的な全体の一部分である。この統一体をわれわれは『宇宙(サムシング・グレイト)』と呼ぶ。 人間は時空間に限定された一部分なのである。人間は、自分自身や自分の思考や感情を、他から分離され独立したもののように体験するが、 それは人間の意識が視覚(肉体的な感覚)に惑わされた妄想に過ぎない。 われわれはこの妄想に捕らわれてしまい、個人的な判断や、そばにいるごく少数の人々に対する感情の中に自分を閉じ込めてしまう。 われわれは自分自身をこの捕らわれから解き放たなければならない。 そのためには、すべての生き物と自然全体を、その美しさのままで包み込む思いやりの輪を広げていかなければならない。」

開祖は、大正14年(1925)の黄金体体験で既に『我即宇宙』の悟りを開いていました。これは、ヨーガでいうチャクラが開いて宇宙と繋がったという体験です。

「たしか大正14年の春だったと思う。私が一人で庭を散歩していると、突然天地が動揺して、大地から黄金の気が吹き上がり、私の身体を包むと共に、私自身も黄金体と化したような感じがした。 それと同時に、心身共に軽くなり、小鳥のささやきの意味も分かり、この宇宙を創造された神の心がはっきりと理解できるようになった。 その瞬間、私は『武道の根元は、神の愛−万有愛護の精神−である』と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。 その時以来私は、この地球全体が我が家、日月星辰はことごとく我が物と感じるようになり、眼前の地位や、名誉や、財宝は勿論のこと、強くなろうという執着も一切無くなった」

「あまりのことに呆然としているとき、はッと悟ったんです。 『勝とうと思ってはいけない。武道は愛の構えでなければいけない、愛に生きなければいけない』と悟りましたが、これが合気道で、昔の正眼の構えです。 そう気がついたら、こんどは何故か有難くて有難くて涙がこぼれてきて、どうしようもありませんでしたよ」

このような悟りの上に、神示に応え、武道を通じて深く洞察し解明した宇宙の真象は、王仁三郎師から学んでいた宗教的真理そのものでした。 白い幽体との稽古の後、「武道の奥義も宗教と一つなのであると知って法悦の涙にむせんで泣いた」と話しています。

武道の奥義が宗教の真理と同じであることが分かったことにより、『我即宇宙』の確信が更に強められたことと思います。

開祖の合気道は、武道を宗教に高めたものではありません。また、宗教の教えをを散りばめて武道を理念化したものでもありません。 そのような小手先の解明ではないのです。

「私の武産の合気は宗教から出てきたのかというとそうではない。真の武産から宗教を照らし、未完の宗教を完成へと導く案内であります」

合気道は宇宙の真象そのものであるとの強い言葉です。宇宙の真象を掴み得た者のみが言える言葉です。 このことをしっかり認識しておく必要があります。

現在でも、科学的な用語で『気』を説明するのが困難なことを考えると納得出来ますが、宇宙の真象を誰にでも分かる言葉で説明することは難しいことです。 開祖にとっては、宇宙の真象を説明するためには、信じているままに概念がはっきりしている宗教的な言葉、神道的な言葉を用いるのが一番ぴったりしたものでした。 これ以外の方法としては、言葉ではなく合気道の技で示すしか手段がなかったことと思います。

「一霊四魂三元八力の大元霊が一つなる大神の御姿である。大神は一つであり、宇宙に満ちみちて生ける無限大の弥栄の姿である。 すなわち天なく地なく宇宙もなく大虚空宇宙である。その大虚空に、ある時ポチ(ゝ)一つ忽然として現わる。
このポチこそ宇宙万有の根源なのである。
そこで始め湯気、煙、霧よりも微細なる神明の気を放射して円形の圏を描き、ポチを包みて、始めて「ス」の言霊が生まれた。
これが宇宙の最初、霊界の初めであります。
そこで宇内は、自然と呼吸を始めた。神典には、数百億万年の昔とあります。 そして常在、すみきらいつつ即ち一杯に呼吸しつつ生長してゆく、ゆくにしたがって声がでたのである。言霊が始まったのである。
キリストが「太初に言葉ありき」といったその言葉がそれで、その言霊がスであります、これが言霊の始まりである。
このス声は、西洋にはこれに当てる字はなく、日本のみにある声である。
これが生長してス、ス、ス、ス、即ち上下左右のス声(+)となり、丸く円形に大きく結ばれていって呼吸をはじめるのである。
ス声が成長して、スーゥとウ声に変わってウ声が生まれる。絶え間ないスの働きによってウの言霊が生じるのである。
ウは霊魂のもと物質のもとであります。言霊が二つにわかれて働きかける。御霊は両方をそなえている。
一つは上に巡ってア声が生まれ、下に大地に降ってオの言霊が生まれるのである。上にア下にオ声と対照で気を結び、そこに引力が発生するのである。
高天原というのは、宇宙の姿である。宇内の生きた経綸の姿、神つまります経綸の姿なのである。
一家族も一個人もそれぞれ高天原であり、そして呼吸して生々と生きているのである。
高天原とは一口でいえば、全く至大天球成就おわるということになる。これ造化開闢の極元なり、高天原の意をより理解して、神の分身分業をなしてゆくところに合気道が出来るのである。 宇宙の気、於能碁呂島の気、森羅万象の気、すべての霊素の道をつづめて、そして呼吸を合わせて、その線を法則のようにして、万有の天の使命を果させるのである。
そしてその道それぞれについて行うところの大道を合気道という。
合気道とは、いいかえれば、万有万身の条理を明示するところの神示であらねばならないのである。
過去−現在−未来は宇宙生命の変化の道筋で、すべて自己の体内にある。これらをすみ清めつつ顕幽神三界と和合して守り、行ってゆくものが合気道であります」

開祖が解明した宇宙の真象は、『我即宇宙』から発展して合気道の技にまで掘り下げられます。それが『三元の法則』と呼ばれているもので、これによって「天地と共に順調な歩みができる」とされるものです。宇宙根源の気(「主(ス)」の神)によって宇宙、地球、人間などが造られますが、その創造のエネルギー(言霊の力、気の力、愛の力)即ち産霊(むすび)の力による宇宙と人間創造の業が合気道になるのです。

「一霊四魂三元八力の大元霊が一つなる大神の御姿である。
大神は一つであり、宇宙に満ちみちて生ける無限大の弥栄の姿(生成発展のエネルギー、天地創造の力)である」、そして「合気とは、言霊の妙用であります。 言霊の妙用は一霊四魂三元八力の分霊分身である」となります。

表1に開祖が関連づけられた『三元の法則』をまとめます。
合気道の技の「三角(△)に入り身し、丸()く捌いて、四角()に納める」という動きを表すものになっています。

「合気道とは大自然の絶対愛を基として、体を△に象り、を中心に、気により△の変化と気結び、生結びを身体に表わし、生み出しつつ気魂力を養成し、皆空の心と体を造り出す精妙なる道である。 皆空とは正しき身魂の和合統一のことなり。
また、合気道とは真空と空と人の上に、愛の結び(むすびの力)をもって大気の中心の大運化に同化練成するをいう」

表1.三元の法則

王仁三郎師は、「言霊は万物を生成化育せしめるために活き続ける根元のエネルギー」と教えています。
そうすると、この『三元の法則』はその言霊の妙用を表したものであることが分かります。
造化三神の御稜威(天地創造の神業=大自然の絶対愛)を表す天の数歌という神詞(かみごと)に一霊四魂三元八力の創造の働きが示されています。
この神詞は、唱えることで、その意味する創造(全世界御創造御経綸)の力を得ることが出来る言霊です。
正に「言葉(言霊)は力」です。この神詞の意味は、別表2(言霊の妙用)に示します。
「三元とは、気・流、柔、剛のことです。また、生産霊、足産霊、玉留産霊であります。これは、天・火、水、地の御経綸であります。 正勝、吾勝、勝速日であります。これが合気道の武産であります。武産とは引力の練磨であります」
「生産霊 足産霊 玉留産霊の三元がととのうと、宇宙全体の姿が出来上がるのである」
「地球修理固成(全世界御創造御経綸)は気の仕組みである。息陰陽水火の結びである。 そして御名は伊邪那岐、伊邪那美の大神と顕現されて、その実行にうつしたのが合気、どんなことでも出来るようになってくる」

相手とムスビを作るまでの半身(三角体)の構えが△で、造化三神を象ったものです。
「宇宙を和と統一に結ぶ」の『和』が、『統一』がで表されています。
これらは、合気道の技の順序ですが、△○□の区別が出来ない程に一体化することもあります。
「△○□が一体化して△○□が一体化となり、それが気の流れとともに円転してスミキルのが合気道じゃ」
「かくのごとく熱心に稽古の徳を重ねるに至らば、相手と相対した時にいまだ手を出さぬうちに、すでに相手の倒れた姿が見える。 そこでその方向に技をかけると、面白く投げられる」

開祖は、『顕、幽、神』や『心、気、体』なども、これらのどれかに当てはまると考えられていたのではないでしょうか。
大本教のお筆先「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。 梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ」がありますが、 開祖は、「三千世界一度に開く梅の花」と言いながら、掴ませた手をパッと開いて教えられたそうです。
「松で治める(納める)」で、「松は」の方が正しいと思いますが、「松は」と述べた部分もあります(『合気神髄』p.93)。

「合気とは解けばむつかし道なれど ありのまま(宇宙の真象のまま)なる天のめぐりに」(道歌)

開祖は、『宇宙の真象』を眺め(窮理し)、それが『我即宇宙(人間は大元霊、一霊四魂の分霊)』であると解明され、 更に大宇宙(天地)と小宇宙(人間)に働く力が『三元の法則』で表される天地創造の力(言霊、気、エネルギー、結び)であることをも見出されました。
この力の働きがそのまま合気道の技に現されます。
そして、合気道の鍛錬において、大和・大愛の精神(念、気の妙用)によって『心・気・体の統一(小宇宙の調和)』と 『心・気・体と宇宙万有の活動との調和(大宇宙との調和)』を手に入れ、それを実践することによって、 合気道がみそぎ技・地上天国建設の神業になるという真理に到達されました。
「私は武道を通じて肉体の鍛錬を修行し、その極意を極めると同時に、より大いなる真理をもかちえたのである。 すなわち武道を通じはじめて宇宙の真髄をつかんだ時、人間は<心>と<肉体>と、それをむすぶ<気>の三つが完全に一致し、 しかも宇宙万有の活動と調和しなければいけないと悟ったのである。 つまり『気の妙用』によって、個人の心と肉体とを調和し、また個人と全宇宙との関係を調和せしめるのである。 合気道は、真理の道である。合気道の鍛錬とは真理の鍛錬にほかならず、よく努め、よく実践し、よく究めつくすところすなわち『神業』を生ずるのである。 合気道は、次のごとき三つの鍛錬を実行してこそ真理不動の金剛力が己の全身心に喰い入るのである。

一、己れの心を宇宙万有の活動と調和させる鍛錬。
一、己れの肉体そのものを宇宙万有の活動と調和させる鍛錬。
一、心と肉体とを一つにむすぶ気を、宇宙万有の活動と調和させる鍛錬。
この三つを同時に、理屈でなく、道場において、また平常の時々刻々の場において実行しえた者のみが合気道の士なのである」

補足になりますが、言葉に力(エネルギー)があることの例を挙げます。
波動測定はまだ現代科学では認知されていませんが、『いろはの書』と『ひふみ祝詞』の波動測定をすると、同じ47文字ですが、 『いろはの書』は2 m、『ひふみ祝詞』は2.5 m離れた位置まで波動が感じられるそうです。
このエネルギーは、O−リング・テストでも同じように判別出来ます。
この距離の差は無常観と創造力の差のようですが、いずれもエネルギーの存在をうかがわせるものです。
このことから、「言霊とは声とは違う。言霊とは腹中に赤い血のたぎる姿をいう」という開祖の道文どおり、単なる言葉(音)ではなく意味するところも重要であることが分かります。 気で言えば、『意味するところ』は『念』に相当します。